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原稿用紙11枚分






「あたしさ、漫画家になろうと思うんだ」
 闇に溶けそうな理恵子の一言に晴香はがばっと布団を払いのけた。
「なにそれ、本気なの?」
 晴香は身を乗り出すようにして尋ねる。声は明かりのない薄闇に吸い込まれてしまったかのように手応えがなかった。近くでもぞもぞと身じろぎする音が鼓膜を撫でる。
「うん、本気。内緒にしてたけど、実は結構前から描いてたんだ。最近大学休みがちなのもそのせい」
 晴香は苦悶にも似た唸り声を洩らした。突然の告白に、言葉が喉で玉突き事故を起こしていた。
「そう、なんだ……」
 深呼吸の後に発したのは結局それだけだった。
「小さい頃から、ずっと興味があったの。でも自信が持てなくて、なんとなく皆と同じ道を歩いてきた。でもちょっと前に、やっぱりあたしは漫画描きたいって気づいて少しずつ描いてたら覚悟ができた」
 理恵子の声音はいつものように細く繊細だったが、普段にはない気丈さがあった。
 ベッドの上で上半身を起こした晴香は背中を丸めて額に手をやった。
「覚悟ってなんの?」
「あたし、大学をやめる」
 晴香は今度こそ言葉を失ってしまった。
 布団の擦れる音がやけに遠くに聞こえた。暗がりの彼方から息を詰め、必死にこちらの反応を掴み取ろうとする気配が感じる。手を叩いて大きな音を出せば、たちまち気を失ってしまいそうな頼りなさがある。
 晴香は首を振り、布団を押しのけてベッドから身を滑らす。床で横になる理恵子を跨いで、手探りで暗闇を歩く。やがてざらりとした感触に当たり、それに沿って手を這わせて小さな出っ張りを見つけた。
「やめて、電気をつけないで!」
 思わぬ強い調子で呼び止められて、スイッチにかけていた手を止める。
「どうして? そんな大事な話ならちゃんと顔を見て話そうよ」
「あたしはこっちの方がちゃんと話せるの。面と向かって説得されたら、思いとどまってしまうから」
「説得されて心変わりするぐらいなら、覚悟できてないってことじゃないの」
 晴香は咎めるように突き放した。
「そうじゃない」
 浅い呼吸、喉の鳴る音。虚空に自分の求める言葉を探す沈黙の末に、理恵子は喘ぐように声を絞り出した。
「正確には、納得して、思いとどまる振りをすると思う。それで晴香には内緒で退学して、ケータイも変えて、まったく連絡を取れないようにしちゃう。……認めたくないけど、そんなことしないって言い切りたいけど、たぶんそうしてしまう」
 晴香は口ごもった。理恵子の語った自己像は彼女に対する晴香の印象とぴったり一致する。
 押しに弱いくせに自分と折り合いをつけるのが苦手で、葛藤からすぐに逃げ出す。あまりにも繊細で、悪く言えば脆弱でそれゆえに危なっかしくて放ってはおけない。
 晴香は我知らずスイッチをなぞっていた指を空中に彷徨わせてから、おもむらに引っ込めた。電気をつけたところで、理恵子はすぐに布団を被ってしまうだろう。たびたび中学生に間違われる小さな体躯はすっぽり覆われる。握り締められた布団には皺が寄って、唯一布団から覗く枝のように細い指は小刻みに震えている。そんな絵が容易に想像できた。
 布団を引き剥がすのは簡単だが、その後は理恵子が言った通りの展開になるだけだ。
「わかった」
 晴香は壁に背を預け、ずるずると地べたに座り込んだ。
「ありがとう」
 理恵子の声音は微笑んでいるようだった。暗がりからほっと息をつく音が聞こえてきそうだ。
 窓を閉め切った室内の空気は少しこもっていた。晴香はパジャマをぱたぱたと扇いで、心持ち汗ばんだ体に風を送る。壁に頭をつけると、遠くで冷蔵庫の唸り声がした。
「両親はなんて言ってるの?」
「お父さんにもお母さんにもまだ言ってない。明日言うつもり。最初に伝えるのは晴香だって決めてたから」
「順番が逆でしょ。お金出してくれてるのは親で、私はなにもしてあげられない」
 晴香は頬が緩みそうになるのを堪え、呆れたようにたしなめた。
「違うよ。親はお金しか出してくれなかった。でも、晴香はあたしに進むべき道を教えてくれた。聞く人が聞いたら怒るかもしれないけど、やっぱりあたしにとっては晴香の方が大事」
「私、漫画家目指せなんて言ったっけ?」
 晴香は首を傾げる。記憶を振り返ってみても、ほとんど記憶にない。
「『恥ずかしかろうが、不安だろうがやりたければやればいいじゃん』。これ、覚えてる?」
「ああ、そんなこと言ったかも。でも、それって確か理恵子に言ったんじゃないでしょ」
 晴香は眉間にしわを寄せ、こめかみを押さえる。
 そうだ。あれは確か淳子がアカペラをやってみたいと言い出した時だ。テレビの影響で興味を持ったのはいいが、今更サークルに入るのは恥ずかしいと顔色をうかがうように切り出したのだ。
 遠回しに一緒にサークルに入ってほしいとせがむ姿がまどろっこしくて、投げやりに突き放した。それ以後、淳子は距離を置いて接するようになり、後ろめたくもないのに気まずい関係を引きずっていた。
「うん、でもちょうどあたしが悩んでいた時だったから、自分に言われたみたいに胸が痛んだな」
 理恵子は当時の自分に思いを馳せてくすくすと笑う。
 おや、と晴香は目を瞠った。控え目に声を上げる理恵子は妙にさっぱりしていた。単に闇夜のフィルターが邪魔して、上手く伝わってこないだけなのかもしれない。しかし、理恵子がいつも背負っているある種の湿気が感じられなかった。
「なんか、私のせいみたいね」
「せいだなんて、晴香のおかげだよ。このままだったら後悔したかもしれないもん」
「でも、その選択を後で後悔することだってあるんだよ」
「それを言い出したら、一歩も動けなくなっちゃうでしょ。だったら、今の自分に正直になろうと思う」
 晴香は口をぽかんと開けた。つい最近まで口を開けば、後ろ向きな台詞ばかりが出てきたのに、これは一体どういう心境の変化だろう。いつももじもじしていた理恵子には常々歯がゆさを懐いていたが、今となっては懐かしさすら感じる。
 落ち着いた呼吸音だけの理恵子はなにか別の存在に変質してしまったようで、違和感が拭えなかった。だが、それこそが理恵子の覚悟の賜物なのだ。
「本気、なんだね」
 晴香は重々しく呟き、膝を立ててそのまま手で抱えこむ。背筋を丸め、うずくまるような格好になった。
「最初に言ったでしょ。本気だよ」
 理恵子はからっと乾いた、しかし芯の通った含み笑いをする。
 晴香は不意に郷愁にかられた。どんな固い意志をもってしても人は時間の前では否応なく変えられてしまう。それを矯正することはできるけど、一度曲がった針金はまったくおなじ形には二度と戻らない。
 理恵子は変わった。ぐねぐねと捻くれていた彼女は真っ直ぐに引き延ばされている。
 私はどうだろう。理恵子のように成長できているだろうか。あるいは、退化してしまっただろうか。
 二つの息遣いが闇に溶ける。トラックの低いエンジン音がして、光の束がカーテンを横切る。晴香はぼうっと浮かび上がった室内に童顔を垣間見た。一心に天井を見つめ、一言も聞き逃すまいと耳をそばだてている。思い詰めているようにも見えるが、不思議と大人びた横顔だった。
 晴香は自然と微笑みを湛えていた。
「わかった。そこまで言うんだったら止めない。でも、私に応援させるんだから途中で逃げ出すのは許さないからね」
「晴香……。うん、絶対あたし漫画家になる。ありがとう」
 理恵子は言葉を噛み締め、力強く頷いた。そして、溜めていた息を一気に吐き出す。それで、張り詰めていた空気が弛緩した。
「よかったぁ。少し不安だったんだ」
「なにが?」
「晴香に嫌われるんじゃないかって。勝手に大学やめて裏切ることになるし」
「ああ、私そういう女の子の掟みたいなの気にしないからいいよ」
「知ってる。だけど、それでも緊張するなってのは無理だよ」
「それは理恵子が小心者だからだよ」
 晴香は意地悪に返してから、真顔になって呟いた。
「いつ、やめるの?」
 我知らず、情けない口調になってしまって赤面する。
 理恵子が答えるまでに僅かに間があった。
「わからない。明日両親に伝えてそれから決めると思う。でも、できるだけ早くにって考えてる」
「そっか。寂しくなるね」
「でも、これから退学の手続きとか挨拶回りとか色々したいから、しばらくは学校に出てくるよ!」
 ともすれば、お互い泣き出してしまいそうな辛気臭い雰囲気を理恵子が払拭しようとする。せっかく打ち明けてた理恵子に引け目を感じさせていることにはたと気づき、晴香はぶんぶんと首を振った。
「別にずっと会えなくなるわけじゃないもんね」
 声を弾ませたが、空元気にしか聞こえなかっただろう。しかし、理恵子はをれを取り沙汰したりしなかった。
 いかんともしがたい感傷にふたをして、それから残り限られた時間を貪るように二人は話し続けた。話題はあちこちに飛び、途切れそうになるとその空白をどちらかが埋める。必要以上に大きな笑い声を上げ、大して面白くもない思い出に大げさなリアクションをした。
 虚勢を張っていなければ、隙間から哀切が忍び込んでなにも喋れなくなってしまいそうだった。
 いつしか、外がうっすらと明るくなっていた。電気をつけないまま雑談を続けていた二人は数時間ぶりにお互いの顔を薄闇の中に認める。
「ねえ、一緒に寝ない?」
 理恵子が悪戯っぽく提案した。蓄積した疲労と眠気でろれつも怪しい。
「なにそれ」
 晴香は吹き出した。
「なんかさ、小学生の頃に友達の家に泊まりに行ったのを思い出したの。せっかく布団が二つあるのに、一つの布団に二人で入ってね。暑苦しいんだけど、すごい楽しかった。今なら、その時みたいな感じが味わえるかなっと思って」
「うーん」
 晴香は人差し指を顎に当てて考え込んでから、やがて首を振った。
「やめとこ」
「えっ……」
 てっきり頷くと思っていたらしく、理恵子の表情に影が差す。
 だが再び顔を上げた時、理恵子は静かに笑っていた。
「そうだね。ごめん、変なこと言って」
「いいよ。それより、いい加減朝だから寝よう」
 理恵子は無言で首肯した。
 晴香はおもむろに腰を上げた。ずっと地面に座りっぱなしでじんじんと痛むお尻をさする。緩慢な動作で理恵子の体をまたぎ、ベッドに滑り込む。
 枕に頭を沈めると途端に抗いがたい睡魔に襲われた。
 晴香は意識を失う寸前に、天井に向かって呟いた。
「おやすみ」
 返事の代わりに静かな寝息が返ってきた。
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